全てを受け入れる器

昨日の経営者の会で
やっぱり表彰されるような人や
リーダーシップをとれる人の
エネルギーは半端ないし

 

言うことが違うな

 

て感じました

 

内容もスケールもね

 

あんなことが
言えるような
デカい自分になりたいものだわ

 

受け入れる器

 

私はつぼみの保育士たちに

 

どんな母親も
受け入れられる保育士に
なってほしいと
話したことがある

 

カンタンなことではない

 

すごく大きな負担を
保育士にかけることになるので
あまり大きな声で言えない
自分がいる

 

それは
それが自分にできていないという
自信のなさがあるから

 

そうなれるように
努力はしているけど
そうカンタンに
器なんて大きくならない

 

この「どんな」というのが
どこまでなのかというのが
問題で

 

どんなって全部とか
すべてとか
すごい広範囲

 

ただ突き詰めて考えると
どんなといっておきながら
たくさんの注釈があることを
自覚する

 

例えば

 

ルールを守れない人

 

もどんなと言ったら
そこに含まれてる

 

それを受け入れられるのか?

 

保護者で言えば
保育料を払わない
時間を守らない

 

保育士で言えば
みんなと協力できない人
相手を思いやれない人

 

これって
母親とか父親という
カテゴリーではなくて
ひとりの人としてどうなの

 

トイレトレーニングも
離乳食も発達の促しも

 

保育園だけががんばっても
進まない

 

家庭との連携があって
出来上がり進むものです

 

その協力をしない
できない家庭でも
受け入れなくてはならないのか

 

この

 

しない

できない

 

かで受け取り方は
変わってくるんじゃないかな

 

足のない人に
走りなさいなんて
ムリなのと同じように

 

できない人には
できないんです

 

できる人は
たまたまできるだけで

 

いつできない方に
なるか分からない

 

逆に
できるのにやらない
やろうともしない

 

という方を
何とか変えようとしても
人はそんなカンタンに変われない

 

自分が考え方を変えるしかない

 

どんな母親でも
受け入れる自分になる

 

というのは
自分が変わると言うこと

 

私はそこを目指したい

 

そうなるまでに
まだまだ迷い悩んで失敗して
経験値を積んでいくしか
ないんです

 

保育士も保護者も保育園も
一緒に成長していきましょうよ

 

子どものために

 

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